Easy Listening

懐かしのアメリカ映画音楽 スゥイート・サウンド・スペシャル

【2024年12月13日 配信】

演奏:ロイヤル・シンフォニック・オーケストラ
指揮:スティーヴ・ロッカー

 1 エデンの東
   EAST OF EDEN
 2 ライム・ライト
   THEME FROM "LIME LIGHT"
 3 大砂塵
   JOHNNY GUITAR
 4 カサブランカ
   AS TIME GOES BY FROM "CASABLANCA"
 5 昼下りの情事
   FASCINATION FROM "LOVE IN THE AFTERNOON"
 6 卒業
   THE SOUND OF SILENCE FROM "THE GRADUATE"
 7 ウエスト・サイド物語
   TONIGHT FROM "WEST SIDE STORY"
 8 雨に唄えば
   SINGIN' IN THE RAIN
 9 マイ・フェア・レディ
   I COULD HAVE DANCED ALL THE NIGHT FROM "MY FAIR LADY"
10 避暑地の出来事
   THE THEME FROM "A SUMMER PLACE"
11 南太平洋
   SOME ENCHANTED EVENING FROM "SOUTH PACIFIC"
12 シャレード
   CHARADE
13 80日間世界一周
   AROUND THE WORLD FROM "AROUND THE WORLD 80DAYS"
14 ティファニーで朝食を
   MOON RIVER FROM "BREAKFAST AT TIFFANY'S"
15 明日に向って撃て!
   RAIN DROPS KEEPS FALLIN' ON MY HEAD
   FROM "BUTCH CASSIDY AND THE SUNDANCE KID"
16 いそしぎ
   THE SHADOW OF YOUR SMILE FROM "THE SANDPIPER"
17 栄光への脱出
   EXODUS
18 風と共に去りぬ
   TARA'S THEME FROM "GONE WITH THE WIND"

Arranged by STEVE RUCKER
Recording Engineer by SHERADIN ELDRIDGE
Recording Studios:
CHROKEE RECORDING STUDIO (Los Angeles)
SOUND DESIGN STUDIO (Tokyo)
Produced by SOUND DESIGN MUSIC

ライナーノーツより
音を持った映画をトーキー映画といった。
その反対はサイレント映画である。日本では、このふたつを発声映画・無声映画といって区別したことがある。

 アメリカ映画の撮影所は、西海岸のハリウッドにあった。ハリウッドのあるカリフォルニアは、雨が少なく野外撮影にはもって来いの土地である。

 トーキー時代の到来前後、アメリカ映画界は、音楽家を集め出した。初めのころハリウッドの音楽の仕事についたのは、外国生まれのクラシック音楽を学んだ人たちであった。

「風と共に去りぬ」のマックス・スタイナーは、ウィーン生まれで、映画界へは40才を越 して入った。「ハイヌーン」のディミトリ・ティオムキンはウクライナ生まれで、31才から映画との縁が出来た。「陽の当る場所」のフランツワクスマンは、ドイツのケーニヒスヒュッテの生まれで、渡米前から独仏の映画の音楽を書き、27才からアメリカ映画の音楽を担当した。「ハイ・リリー・ハイ・ロー」(映 リリーの主題歌)のブロニスラウケーパーは、ワルソー出身で、独仏の映画を経験し後に渡米、37才からアメリカ映画の仕事についた。「ベン・ハー」のミクロス・ローザはブダペストの生まれ。イギリス映画をへて、アメリカ映画にタッチしたのは34才ごろからである。「栄光への脱出」のアーネスト・ゴールドは、ウィーンに生まれ、17才でアメリカへ亡命。30才から映画の仕事を始めている。「ブリット」「燃えよドラゴン」のラロ・シフリンは、ブエノスアイレス生まれのロシア移民の子で、渡米後、ジャズの世界から32才の時に 映画音楽との縁が出来た。

 それぞれアメリカへ移住した理由も時代も違うが、外国生まれの音楽家たちである。全く生活上の障害がなかった訳ではないが、多民族国家のアメリカで音楽の才能を頼りに映画音楽の世界に入った。

 アメリカ生まれのビクター・ヤング、アルフレッド・ニューマン、アレックス・ノースエルマー・バーンステイン、ヘンリー・マンシーニ ジョニー・マンデル、クインシー・ジョーンズなども12代前の、ポーランド、ドイツ、イタリーからの移民の子である。アメリカ映画の音楽が変化に富んでいるのは、こうした外国系の民族音楽が無意識の内にとけ合っているためだと私は推測する。

 アメリカ映画が全盛の間は、ハリウッド入り出来るということは大変な幸運であった。 少々、嫌な思いをしても、安定したかなりの収入をえられる映画界のようなところは、そうざらにはないと考えて仕事をする音楽家が多かった。 しかし、中にはずけずけ毒舌をはき、マイペースで仕事を続けることが出来た 作曲家もいた。

 ポーランド系でワルソーで勉強して帰米したビクター・ヤングは、一見ボクサーのような精力的な男で、よく働き、よく遊び、思うことを遠慮なくいった。彼は、「愚かなりわが心」「ラブレター」「シェーン」などの美しいメロディーを沢山書いたが、生前、アカデミー賞を手に出来なかったのは、口が災いしたのではないかという人もある。

 ヤングよりすごい毒舌家は、「タクシー・ドライバー」の音楽を残して死んだバーナード・ハーマンである。試写で愚作を見せられると製作者に、“なんでこんなくだらない映画を見せるんだ”とどなったという。

ヒッチコック監督作品の音楽を手懸けたハーマンは、「引き裂かれたカーテン」の時ヒッチコックが主題歌を書いてくれないかと頼むと“そんなくだらねえことは出来ないね” と仕事をおりて仕舞った。
マックス・スタイナーとアルフレッド・ニューマンは、比較的製作側に協力的であったが彼ら以上におとなしかったのは「ハイ・ヌーン」「OK牧場の決闘」などで有名なティオムキンであったという。彼は、プロデューサーに呼びつけられて映画音楽をピアノで演奏させられていた。 しかし、オスカーを4つとり、代表的な存在になってからは、演奏楽団を用意させて、自分でピアノを弾くことを拒絶した。

 ヘンリー・マンシーニが「ティファニーで朝食を」の音楽を録音した時代には、録音スタジオには吊マイクが1本であった。マンシーニは、早速、技術者に数本のマイクを用意するように依頼した。技術者は、変な音楽家だという顔でしぶしぶマイクを設置した。しかし、出来上った録音を聞いて今度は技術者の顔が驚きに変った。すばらしい音楽のサウンドだったからだ。

 ところで、映画音楽にジャズ調を最初に取り入れたのは、マンシーニということになっているが、それ以前に「欲望という名の電車」でアレック・ノースが、そして4年おくれて「黄金の腕」でエルマー・バーンステインが、すでにジャズを用いていた。また、「いそしぎ」で有名になったジョニー・マンデルも、ウェストコースト(アメリカ西海岸)ジャズで活躍していただけに、「私は死にたくない」でジャズ手法を使って好評をえていた。

1950年代の後半から、テレビ映画で腕をみがいた作曲家が、ぼつぼつ劇映画の仕事も出来るように成って来た。1957年から映画界に入ったジェリー・ゴールドスミスもそんな作曲家で、現在まで映画音楽一筋の活躍を続けている。

 1950年代までは、けんらん豪華な音楽映画を世に送っていたハリウッドも1960年代に入 ると、音楽映画製作数は年々へって行き、アイドル歌手主演のイージーな音楽ものが幅をきかすようになる。
そして1970年にアルフレッド・ニューマンが、翌年にはマックス・スタイナーが、あいついで世を去り、この直後デミトリ・ティオムキンも引退する。 1979年のティオムキンの死は、華やかだったハリウッド音楽のフィナーレともいわれている。