【配信】
- 亜細亜を旅する喜多郎はさらなる旅を求めてシルクロードの旅へ
- 7世紀から続く日本人の心の中の西方への憧れを、シンプルで、 心溶かすメロディで表現してみせた佳曲集というべきアルバム。
エンディングを飾るく果てしなき旅路は、この世紀末にもうち続くようで、じつに印象的だ。
- 曲目
- 1 吉祥 / AUSPICIOUS OMEN
2 日暈 / HALO
3 憂愁 / MELANCHOLY
4 入江 / EMBAYMENT
5 渡海 / GREAT VOYAGE
6 霊峰・来迎 / SACRED MOUNTAIN/SUNRISE
7 歓喜 / DELIGHT
8 安寧 / IN PEACE
9 無可有 / UTOPIA
8 果てしなき旅路 / ENDLESS JOURNEY
- レコーディング クレジット
- Produced by TAKA NANRI
Associate Produced by MOKO NANRI
Recorded and Remix Engineered by KITARO
Recorded at KITARO NAGANO YASAKA ATELIER Remix at SOUND DESIGN STUDIO
KITARO Plays
Korg Synthesizer/Roland Synthesizer/Prophet 5/ Mini Moog/12 Strings Guiter/Acoustic Guiter/Sitar/ Santool/Tambura/Harp/Yamaha DX-7/CP-80 Electric Piano/ Fender Rhodes/Emulator Drums/Drums/Percussion
- ライナーノーツ
- アーティスト喜多郎の名を、旅の記憶と結びつけて覚えている人は、さぞや多かろうと思う。
この長髪の、個性あふれる風貌のシンセサイザー奏者であり、各種楽器をあやつる楽人は、及そ20年前の時代、単なる楽人ではなく、身近でありながらよく知り得なかった異空間への旅に、多くの人を誘うドリーム・ウィーバー、つまり、夢織り人であった。
いうまでもなく、喜多郎の名を一躍世間に知らしめたのは、NHKのドキュメンタリー「シルクロード」の映像とシンクロナイズされた音楽であり、シルクロードという東西両域の人間双方にとって、古来よりロマンとエキゾチシズムの対象であった道無き道の映像による旅は、そのまま、喜多郎の音楽と表裏一体になって、人々の記憶に刻印されている。
しかし、喜多郎の音楽の特異性は、いわゆるそうしたサウンドトラックとしての機能から離れても、 また別種の映像を喚起させるような力を持っていた点にあるのではないかと今にして思う。
シルクロードという長安と敦煌という大中国の東西点、さらには砂漠を超えて西の世界に東洋を結ぶ気の遠くなるような大回廊の道は、そのポイントのそれぞれにカメラが入りこめる時代になっても、その全貌をとらえるには、想像力の助けを借りなければならないものだった。従って、もし、喜多郎の音楽が無ければ、あるいは、他者の音楽が代わりを務めていたならば、あの高名な映像は、いったいどんな印象を与え、また、どんな印象で残っているだろうか...それは、まったく別物ではないのだろうか、と近年よく思う。
喜多郎の音楽は、和太鼓までを動員するからいうのではないが、極めて日本的であり、また、シタールまで動員するからインド的という訳ではない。敢えていうなら、汎アジア的であり、アジアと中東、ヨーロッパの境を超えていくユーラシア的なものであると思うのだが、受け取る側の想像力によってはロシア的でもあれば、アメリカ的でもあり、その不思議な、ボーダーレスな内包力は、この世紀末になっても変わらず、色褪せていない。
シルクロードの伝説やロマンは、サー・デューク・エリントンにもカルロス・サンタナにも、砂漠の中の隊商や蜃気楼が写し出すふたつの太陽を描かせたが、喜多郎は、それら情景を描くと同時に、もっとその先の、自分のイマ ジネーションの中にある異郷への旅を描いていたのである。極めて現実に則したものを楽想の基に置きながら、その裏側、向う側にあるものを描こうとするという思想は、科学と合理主義の思想にどこかで触れている西洋音楽の発想とは異なるかもしれない。
ある意味で極めて合理的な楽器であるシンセサイザーを駆使しながら、エリントンやサンタナのくキャラヴァン>とはまったく異質の旅を表現し、同時代のドイツのタンジェリン・ドリームやギリシャのヴァンゲリスらとはまったく異なる "非合理的な夢の足跡 " を音像化した喜多郎の音楽は、やはり東洋の産物であり、割り切れず、測り切れず、という深遠な美しさを持っていた。その反西欧的な深遠さが、例えばケルト音楽の非合理ながらも精神力の強さを持つ特異性と同じように、現代に、新鮮に、たち還って来るのに、なんら不思議な点はない。
夢織り人再び・・・ こんな時代だからこその再発見である。