【配信】【レーベル:SHIZEN】

 ■4th Album 1987年作品

○○○○○○○○イメージ
まごころ、やさしさ、愛。それをオカリナで語りたい
巡り来ては去る季節との別離と、それをまた待つ心をオカリナが繊細に描いていく。
見慣れていても、うまく言い表せない日常の風景を語り上げた心象音楽。
テレビ朝日・ニュースステーション"こころと感動の旅"テーマ曲「雲を友として」、NHKゆく年くる年 テーマ曲「こころ」、毎日香CM曲「四季~愛しき子供達へ」を含む名盤。

曲目
1.こころ NHKゆく年くる年 テーマ曲 / Kokoro
2.四季~愛しき子供達へ 毎日香CM曲 / Four Seasons
3.清流 / Stream
4.思い出の小箱 / Childhood's Memory
5.若葉の頃 / Early Blooms
6.雲を友として 「こころと感動の旅」テーマ曲 / Drifting With The Clouds
7.地平線 / Shimmering Hrizon
8.光のなかで / Inner Light
9.大地の神 / The God Of Mother Earth
レコーディング・クレジット
Produced by TAKA NANRI
Associate Producer : Moko Nanri
Recorded & mixed at Sound Design Studio (Tokyo)
Music published by Sound Design Music Inc.

情緒豊かな作品
70年代半ばより音楽活動を続けてきた彼にとって、大いなる飛躍の第一歩となったのが、86年のドキュメンタリー番組『大黄河』でのサウンド・トラックを担当したことでした。
古代中国の匂いを完膚なきまでに表現した秀逸極まりない音作りがリスナーに大きな反響を呼び、一躍その名を日本中に轟かせました。以来、自然/歴史/神話をモチーフとした情緒豊かな作品を多く生み出し、高い人気を獲得しています。

その中でも特に完成度の高いアルバムがこの「心」です。また、リスナーには馴染みの深いタイアップ曲も3曲収録されています。

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ライナーノーツ「風の革命」三橋 一夫
 それは静かな革命であった。何の革命かと問われれば、「風の革命」と答えようか。

 SHIZENレーベルの発足とともに脚光を浴びた宗次郎の楽器はオカリナであった。彼の演奏を聞くまでは、ほとんどの人は、オカリナが芸術になりうるなどとは想像できなかったのではないだろうか。オカリナを素朴な焼き物として愛玩する人はいても、音域は狭いだろうし、複雑なメロディーなんか演奏できないだろう──と、誰かが断言したわけではないのに。

 宗次郎のファースト・アルバム『グローリー・幸福(しあわせ)』を耳にした人は、たちまち、その漠然として誤解を捨ててしまったに違いない。その音色は、<コンドルは飛んで行く>であまりにも有名になった、アンデスの笛ケーナに似て、色彩感とパワーとをにじませた、素朴で親しみやすいあたたかさにあふれている。私は彼のオカリナに「風」を感じた。

 風……それは、春の野辺の石の地蔵にもやさしく語りかけるし、アンデスのコンドルたちの翼をも鍛える。それは、いまだ人が足を踏み入れたことのない土地にも、超高層ビルの街にも吹く。大地は動かすことができないが、風は動く。その命は自由である。

 宗次郎みずからの手で土をこねて焼いた一握りの楽器が風を起こし、人々の心を洗う。その音色が広く知られるにいたったのは、NHK特集『大黄河』の音楽を通じてではあったが、それは折から、自然を取り戻す営みがさまざまのところで求められている時期でもあった。

 団塊の世代が高校生から大学生へと進んだ時期に、若者の心をとらえたフォーク・ソングとロックは、日本では海外のポップスや映画音楽とも融合して、ニュー・ミュージックと呼ばれる音楽となった。この二十年ほどの間の最も大きな変化といえば、音楽なしの生活などというものは考えられなくなった人が、非常に増えたということだろう。クラシックでも、ジャズでも、フュージョンでも、エスニックでも、イージー・リスニングでも、およそ「良い」と感じられる音楽にならジャンルにとらわれず、何にでも親しんできた。

 ある黒人アーティストは、「最上の曲とは、一つの曲で、踊ろうと思えば踊ることもでき、同時にイージーリスニングとして聞くこともでき、お望みならばメッセージを受け取ることもできる曲だ」と言った。この言葉は裏返せば、 聞き手の求めるものが複合化していることを物語っている。人々が親しんで来たあらゆる音楽要素を包み込んだ新しい音楽が待ち望まれていた。この状況は海外でも同じで、さらに自然回帰志向と結びついて、「ニュー・エイジ・ミュージック」と呼ばれるジャンルが育ち、最近では グラミー賞にもその部門が新たに設けられるにいたった。そのような折りに、宗次郎の音楽が人々の耳にとどくようになった。単にオカリナという楽器を檜舞台に乗せただけではなく、感性と意識との大きくて静かな革命の流れの中に、宗次郎が輝き始めたのである。

 宗次郎の今回のアルバム「心」は、まぶしい。 ファースト・アルバムでは藍であったものが、一気に大きく豊かな花を開き出した感がある。アルバムを通して聞いた人は、いくつかの曲には聞きおぼえがあると思うだろう。アルバム・タイトルになっているくこころ>は、NHKの「ゆ く年くる年」のテーマだし、<四季─愛しき子供達へ>は毎日香のCFに使われている。く雲を友として>は、テレビ朝日系ニュースステーションの「立松和平・心と感動の旅」のテーマとして使われている音楽に、立松和平氏がタイトルを つけた。<地平線>は、テレビ朝日系「終着駅・ ロマン紀行」のテーマである。〈大地の神〉は日 本テレビ系「Time21」で使われていた。く思い出の小箱〉は、SHIZENアーティストのひとりとし てすでにおなじみの熱田公紀作曲<チャイルド フッズ・メモリー〉が元になっている。これらのメロディーには、汚れのない大気を胸いっぱいに吸いこんだ時のような、やさしさ、あたたかみ、明るさがあり、時には、オカリナを吹いているのだということを忘れさせるくらい、自然に融けこませる。

 今、宗次郎は、たとえていえば「光る風」であろう。鋭い季節感をもつ俳人たちは「風光る」という季語を生み出した。春になって日光が強くなり、そよそよと軟らかな風が吹きわたると、 風が何となく鋭く光るように感じられる。いわゆる春風とは趣の異なる風である。風の革命は静かではあるが、地球に大気があるかぎり、そして人々に心があるかぎり、始まった変革が止 まることはないだろう。宗次郎のオカリナは21 世紀に向かって歌いつづけるだろうから。

ライナーノーツ「風の音楽」立松 和平
 清冽な水と空気に満ちているという、宗次郎が暮らす山の辺の里のあたりを、私はよく知っている。茂木町のある栃木県は、私の故郷である。東北新幹線や東北自動車の喧噪から離れ、ひっそりと奥まった山の里には、時代の流れとは無縁な時間がなりたっている。山川草木に、精霊や鳥獣虫魚の濃密な気配がある。

 首をつむれば、宗次郎がその中にいるという時間が、私には見える。森から森へと渡ってくるようなあんな時間が私のもとから放れていってから、どのくらいの歳月がたってしまったのだろうか。

 もう十六、七年も前になる。東京で泡のような寄る辺のない暮らしをしていた私は、ある時故郷の山河が切ないほどに恋しくなった。渇望といってもよかった。私の気持が向いたのは、私が生まれた宇都宮ではなく、そこから少し東に寄った静かな山林であった。

 友人の紹介があり、私は茂木町の隣り、陶器の里の益子町の山林に、廃屋を見つけた。 廃校ならぬ、潰れて跡形もなくなった製陶工場の陶工長屋であった。障子を張りかえ、朽葉のたまった古井戸の底をさらい、囲炉裏には新しい薬灰をいれて、私はそこを仮の宿と決めた。放浪の果てにたどり着いた束の間の場所であった。

 猫の額ほどの畑があり、その先に竹藪があった。私は濡れ縁に坐り、一人茫然として風の音を聞いているのが好きだった。何時間そのままいようと飽きもせず、ふと気づくと夕聞がすぐそこまで寄せていたりした。

 自然は音楽家である。風が竹の梢を渡り、 竹の葉はこすれあう。黒い杉の大木が風を呑んで揺れている。風が何処からか水音を運んでくる。小鳥が鳴く。

 宗次郎のファーストアルバム「グローリー・幸福」を聴いて、私はまずあの草の庵で聴いた風の音を耳の奥に甦らせた。背伸びもなく、街いもなく、また不必要な自己卑下もない。在るがままに充足した世界がそこにあっ た。「グローリー・幸福」とは、皮肉とかパロディとかの姑息さとはおよそ無縁な、存在そのものを無防備に投げだした姿なのである。そうでなければこのタイトルはつけられない。

 人はこれを素朴といったりする。しかし、こう聞くたびに、私はその人の言葉の貧しさを感じてしまうのだ。どうして風の音が素朴なのだろうか。

 オカリナは震えるような繊細さで温い音をだす。土を焼いてつくったから素朴な楽器だというのは間違っている。目のつんだ緻密な音は、素朴からはおよそ遠い高度なテクニックによって編りなされている。宗次郎を囲むミュージシャンたちも、過度な自己主張を控えて、心やさしい位置からのアンサンブルを奏でている。彼らの深いやさしさが、独特の「間」をつくっていて、心地よい。豊かな感性やテクニックのない音楽家ならば、耐えきれなくなってこの「間」を埋めようとするだろう。

 テクノロジーは自然から遠ざかりながら何処かで自然を模倣し、限りなく本物に近づこうとする。日常の便利となる技術だけではなく、音楽の世界でも同じことがいえる。コンピューター音楽は、どんな音でも合成が可能だという技術の進歩の上に立っているが、それはどこまで疑似音である。模倣であって、 自然ではあり得ない。

 粘土をこねてオカリナを焼くところからはじまる宗次郎の音楽は、宗次郎という自然の上にのみ存在する。宗次郎の音楽はまぎれもなく彼自身にしかできない音楽なのだ。彼は無限にコピーが可能な複製の文化が氾濫する時代に、オリジナリティという古い衣装をまといながら、驚くべき新鮮さで立っている。

 風の音を再現するのではなく、彼自身が風になる。彼がオカリナを吹く時、風が起こるのだ。

 容貌や経歴から察するに、彼は放浪をくりかえしてきて、山の辺の里の廃校に今は落ち着いてはいるが、これからも放浪をつづけるだろう。しかし。自分のサウンドを掴んだ彼は、無限の再生産をくりかえす自然そのものとして、風として、放浪をする。彼を素朴というのは、自然を素朴だというのと同じことである。

 山に住み風と交感して生まれた宗次郎サウンドは、山川草木や鳥獣虫魚に語りかけているだけではすまなくなった。多くの人が草や木や鳥や魚になりたがり、結局はなれない。宗次郎はそんな人々の渇望する魂に染みていく。多くの魂は風に洗われるのを願っているのだ。

 同時代人として、私は宗次郎の音楽にじかに触れることができたのが嬉しい。テレビ番組「ニュースステーション」で私が関っているコーナー「心と感動の旅」に、彼は音楽をつけてくれる。私は編集が上がったビデオテープを観て、その場でナレーションの原稿を書く。書いた原稿をマイクに向かって読んでいる時、宗次郎の音楽が風景の奥から風になって吹いてくると、何とも心が慰撫される。 風景の中に風が吹き渡るのを感じることができる。風が吹けば風景には生命が吹き込まれる。世るのは風景だけではなく、風景の中にいる私たち自身もなのである。

 宗次郎の音楽は魂のしらべなのだ。魂の再生の歌といってもよい。